「縁起」
日蓮宗 今島山 唱行寺
第五十四世 住職 加藤 英晋
Kato Eishin
太鼓の霊場
今島山 唱行寺 (こんとうざん しょうぎょうじ)
開創 建長六甲寅年 (西紀一二五四年)
後深草天皇の御宇建長六年称阿弥(六十九歳)と称し、身分軽からぬ法印(西海の守護大名大内氏)此処今島田の里に草庵を結び、行基菩薩の真作薬師如来像を安置し、鉦鼓を打ち称名念仏に励む。時恰も宗祖大聖人(三十三歳)立教開宗の翌年に当り、鎌倉より下総(中山を中心)に御遊化あり、遇々念仏の鉦鼓を耳にし、称阿弥の庵に錫を留められ、四箇の格言を説き、諸仏出世の本懐たる法華経こそ仏陀の本意なるを説かれた。称阿弥は其の深義を了解し即座にみ弟子となる事を請い、大聖人ゆるされて首題房と名をたまい、念仏を改め唱題の行人となった。
これより七年後文応元年八月、大聖人は松葉ヶ谷法難を下総若宮の法ヶ堂に避けられた。首題房改宗帰依の信者と共に、宗祖に面奉し、先頃修築なりし寺塔の開堂供養を請い、仍て宗祖自ら唱題房奉持の薬師如来をそのまま釈迦牟尼一尊仏と称し、厄除よ本尊仏として奉安され、山号を今島山、唱題修行の寺、即ち唱行寺と称される様になった。首題房には日唱とたまい、大聖人を開山と仰ぎ、自ら開基となり朝夕の修行に励んだ。
これより日唱上人唱題行に入るも、業障の為(承久の乱に失った多数の軍兵の霊にたよられて)睡魔襲い来て修行を妨げられると、鉦を用いることの許しを願うも、大聖人は「法華経に"鼓を打って四方に宣令し法を求めき"又"諸天天鼓を打ちて常に衆の伎楽を作す"とあらば。太鼓を打ちて唱題行の伴侶とすべし」と以来日蓮宗における太鼓の始めと謂われる所以である。
鉦鼓塚 称名念仏時の伏鉦を納めた印石
梶川与惣兵衛の祖父母の塚 正面本堂より左方奥
合掌
加藤 英晋